「正しいこと」と「良いこと」(2011年12月)
2011年12月度のビデオメッセージ
皆さん、こんにちは。少し遅れてしまいましたが、ことし最後のメッセージをお伝えしたいと思います。昨日、南米のチリから帰ってまいりまして、きょうは12月7日ですが、海外出張中だったもので、ご挨拶が遅れてしまいました。
チリに旅行しながら、いろいろなことを考えていたのですけれども、海外を旅行しますと、自分の住んでいる場所、日本を、いろいろ違う観点から考える機会ができます。
最近の日本の様子をみていて、少し気になることがあります。大変、文明が進み、一見、社会の生活は向上し、一応、人間も知恵が付いてきたかにみえておりますが、例えば報道の中身をみますと、政府を含めてずいぶん批判が多く、ほとんど褒めることはありません。もちろん、その一つ一つをとりますと、正しい批判です。政治家の言動が良くないことはままあり、それを批判することは正しいわけです。
しかし、そのようなことを営々と、365日続けることが、本当に私達の幸せにつながっているのだろうかということが、少し心配になります。人間は正しくない言動をとりつつ、同時にかなりの時間、良い行い、良い発言もしているはずです。ところが、良い発言、普通の発言は、記事にはならないので、取り上げられません。ですから、報道は、悪口といっては何ですが、批判が99%を占める形になるわけですが、これが継続していきますと、人間、お互いに不信感が増大されていきます。ところが、それにも関わらず、そのような批判のすべては、それぞれそれなりに的を得ている正しい批判なのです。このような現代社会に、いま私達は直面しているのではないかという気がいたします。
日本は特に人々が真面目ですから、ちょっとした不正、あるいは間違いに対して、皆さん、大変シャープに反応されるのではないかと思いますが、問題は、これからどうしていくかです。もっとバランスの良い社会を、そして一人一人が本当に幸せを求めることができる知恵を、さらに磨かなければいけないのではないかという気がします。ですから、すべて正しいことを続けていくことが、決して幸せに直結しないということを、私は強く感じます。
むしろ報道は、あるいは人間の知恵の所産としての社会のあり方、あるいは法律等は、たかだか100年、200年のものです。それ以前の1000年、2000年、3000年を人間はどうやって生きてきたのか、これを象徴するのは宗教だと思います。もう少し広い意味で、哲学といってもいいかもしれません。宗教の特徴は、数千年あるいは数万年の視点で、人間の本質、弱さも強さも含めて、人間のあり方、生き方、性質、本性というものに対して、素晴らしく深い洞察を加えてきたことです。それが凝縮されているものが宗教なのです。ところが、いまの世界では宗教の果実というものがほとんど見直されていない、その価値が十分に理解されていないのではないかと思います。
もう一度、我々は人間の本性に目を向けることによって、一見、鍵括弧付きで正しいことと、その積み重ねによる良くない帰結、そのようなものの良い悪いを見定めることが必要になってきているのではないかという気がしております。
ことし最後のご挨拶とさせていただきます。ありがとうございました。