電子辞書の功罪(2009年7月)

2009年7月度のビデオメッセージ

今月のメッセージをお届けしたいと思います。

今月は、最近、ずいぶんいろいろなところで流行っている電子辞書の功罪について考えてみたいと思います。

結論からいいますと、私はどうも電子辞書という代物に親しみが持てないのです。何か知的な作業を進めていくときに、あの小さな画面から読みとれるものは、実は非常に狭い、切り取られた知識ではないかという気がします。例えば紙の英語の辞書で名詞を引きますと、その前後に形容詞形や副詞、あるいは語源に近い関連した単語が一度に私達の視界に入ってきます。そのようなものをみながらたどっていく知的な連関というものがあるのではないかと思います。言葉だけの世界においても、それが人間の知的な活動、あるいは考えを非常に刺激してくれる、そのような働きが非常に大きいのではないかという気がいたします。

さらに、例えば広辞苑のような辞書をパッと1ページ開きますと、おそらく何百という単語が一度に目に入ってくるわけです。しかも、場合によっては語源の説明も含めて深い内容が述べられています。30分、40分眺めていても、次から次へ、いろいろな言葉とそれに対する解説が読めますから、非常に思いがけない、知的な世界の散歩が可能になるのではないかと思います。これが本来、人間という生き物に許された認識の仕方だったのではないかという気がいたします。

それに対して、電子辞書がいま私達に与えてくれるものは、本当に目的だけに限定した、非常に狭い限られたものなのです。それがさらにどこかに膨らんでいくということは、使う側がよほど努力しないと得られないことです。

似たようなことが、いま流行りのWebについてもいえるのではないかという気がいたします。Webは便利だといいますが、結局、私達がかなり深い考察を加えようとするときには、最終的にそのWebの内容を印刷して、紙の上に印字します。その紙に印字されたものを複数眺め、あるいは読むことから、私達は次のステップの、さらに深い思索、あるいは連想に到達することができるのではないかという気がいたします。

若い方々、学生諸君などは、軽い、あるいはすべてのものが一つに入っているという意味で、いわば簡易策として電子辞書を使うのはいいとは思うのですが、自分の机の上、あるいはその周辺には、しかるべき厚みのしっかりとした辞書を用意して、勉強を掘り下げてほしいと思います。

どうもありがとうございました。

【キーワード】 学問・教育